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本稿では1980年から1991年に掛けてのアメリカ合衆国の歴史を扱う。この時代には、ジミー・カーター政権の最後の1年間、ロナルド・レーガン政権の8年間、ジョージ・H・W・ブッシュ政権の前半2年間が含まれる。カーターはイランアメリカ大使館人質事件で汚点を付け、国内でも反対勢力の台頭に会って、再選を求めた1980年の大統領選挙では共和党のレーガンに敗北した。レーガンはその1期目の1981年と1982年の不況を経て、アメリカ経済を刺激することを目指した積極財政政策を採用した。その中には石油供給過剰に繋がる石油規制緩和があった。ソビエト連邦の指導者ミハイル・ゴルバチョフとは4度の首脳会談を行い、中距離核戦力全廃条約の調印にこぎつけた。これらの行動により冷戦の終結に向って加速させ、ブッシュ政権初期には冷戦が終わり、ベルリンの壁は取り除かれた。1987年にアメリカ史の中では2番目に大きな株式崩壊が起こった。これが1990年代初期不況の前兆になった。この期間では最大のスキャンダルはイラン・コントラ事件であり、イランに武器を販売し、その利益がCIAによってニカラグアの反共民兵組織「コントラ」の援助に流用されていたものである。 == 人口動態の変化とサンベルトの成長 == 1970年代の人口に関わる現象として最も広く議論されているのは、アメリカ合衆国の南西部と南東部、そして特にフロリダ州とカリフォルニア州を含む「サンベルト」の興隆だった。カリフォルニア州は1964年にニューヨーク州を抜いて、全米で最も人口の多い州になっていた。1980年までにサンベルトの人口は工業化の進んだ北東部や中西部を上回るようになった。北東部や中西部は人口の減少が始まっていた。サンベルトの興隆は1950年代以降続いていた郊外の成長の延長線上にあり、自動車の人気が高まるとともに移動性が向上したことが大きな原因だった。さらにサービス産業が勢いをつけ、製造業が衰える中で、北東部や中西部の工業州から新しい「フロンティア」への人口移動を演出することになった。 サンベルトの興隆は国内の政治地図を塗り替え、保守派が勢力を強めた。この成長する地域の好調感はいわゆるラストベルトの関心事と鋭く対立した。ラストベルトは高度に集中が進み、衰退する産業基盤に寄り掛かっており、数多い貧困少数民族集団が住んでいた。北東部と中西部は社会問題への関与が強いままであり、南部や西部の広く開け、都市から郊外に拡大する地域よりも規制された成長に大きな関心があった。これら地域の選挙動向はこの違いを反映していた。北東部と中西部は連邦、州および地方の選挙で民主党に投票する傾向を強め、南部や西部は共和党の強い基盤になっていった。 製造会社が都心部や都市圏中心から税が低く規制の少ない郊外にその工場や本社を移すにつれて、去っていった事業からの税収を自治体が失うために経済基盤が縮小すると見るものが多かった。国の主要都市圏の失業率が増大する中で、公共事業への需要が拡大する一方で税の基盤が縮小した。ニューヨーク市は1975年に破産寸前のところまで行った。 国の主要都市圏の財政問題は第二次世界大戦の終戦以来、国内の人口移動という広い状況の中で起こってきており、大都市は衰退する税収基盤への対処を強いられた。一方で保守派はリベラルな社会政策の失敗と考えるものに対する対立を強め、これをテーマに1980年の大統領選挙と1994年の中間選挙を進めて、40年間続いていた民主党によるアメリカ合衆国下院の支配を共和党が奪った。 1960年代のリベラルな指導者達は「偉大なる社会」や「公民権運動」の時代を象徴していたが、保守派民主党員でニューヨーク市長のエド・コッチのような1970年代の保守派都市政治家に国中で道を譲ることになった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アメリカ合衆国の歴史 (1980-1991)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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